東京駅から東北新幹線で、2時間半近く。一ノ関でJR大船渡線に乗り換えてまた1時間半。長旅を終えて到着したのは、三陸海岸の一部をなす海のまち、宮城県の気仙沼市だ。
その立地と交通の便の悪さから、「陸の孤島」だと揶揄されることもしばしばだという気仙沼。
一方でここには、山や川、そしてそれらが作り出した豊かなリアス海岸がある。それゆえに古くから漁業で栄え、水産のまちとして発展してきた。
特に水揚げ量が多いカツオやサメをはじめ、春はワカメやホタテ、夏はウニやほや、秋は秋刀魚、冬はメカジキや牡蠣、アワビ……と、海の幸をあげていけばきりがない。
一方山の方でも、寒い冬に育つ「春告げ野菜」や甘さが評判の「気仙沼いちご」など、多様な食材が栽培される。どんこ汁やあざら、マンボウの刺身など、食材が豊富だからこその郷土料理も数多く存在する。
そんな気仙沼は、40年近く前から、こうした豊かな食を中心としたまちづくりを行ってきた。1986年の「魚食健康都市宣言」にはじまり、2000年代には草の根団体が「スローフード運動」を起こし、2003年には市として「気仙沼スローフード都市宣言」を行った。
そして2011年。東日本大震災による津波で、まちは壊滅的な被害を受けた。しかし、それを転機として、地域を担う人材の育成や、地域資源をより活かした観光づくりにも力を入れ始める。そして2013年、これまでのまちづくりの取り組みが評価され、独自の食文化を持ち、環境への取り組みも行うまちとして、イタリアで発足した国際的組織「チッタスロー(スローシティ)協会」から、国内で初となるスローシティに認証された。
こうした歴史を経て、今や気仙沼には、食を自分たちの誇りとする精神がDNAのように根付く。そして、食材や地元の小生産者を大切にし、その後ろにある自然と共生する“スロー”なあり方には、私たちが工業化された日常の中で失ってしまっている大事なエッセンスが詰まっている。
今回筆者は気仙沼を訪れ、スローフード気仙沼の理事長であり、気仙沼のあらゆる地域活動を支えてきた地域のキーパーソンでもある菅原昭彦さんの話を聞いた。
前編では、スローフード宣言を行うに至った経緯や、食を軸にした気仙沼の取り組みについて、後編では、震災からの復興で決めた「海と生きる」覚悟や、スローシティとなった気仙沼の姿を、気仙沼市震災復興・企画課の神谷淳さんのお話も交えながら綴っていく。

ただただ、自分たちのまちを良くしたい。その想いに「スローフード」の考え方がぴったりだった
気仙沼がまちの精神の軸とするスローフードとは、1986年にイタリアで始まった、土地の伝統的な食文化や食材を見直すことを目的とする国際的な社会運動だ。当時台頭してきていた「速い」「安い」「いつでもどこでも同じ味」といったファストな食のあり方に対し、自然のリズムに合わせたゆるやかなスピードを大事にする。地元の小規模な生産者により、環境に配慮した方法で作られた食、そしてその食をめぐる一連の流れをライフスタイルとして尊重する。
地域でさまざまな役割を担ってきた菅原さんが気仙沼でスローフード運動を始めたのは、2000年のこと。その始まりにあったのは、まちづくりの方向性を見失い、地元への誇りを失いつつあった気仙沼をなんとかよくしたいという純粋な想いだったという。
「まちが良くなるかどうかは、結局最後はその地域の人たちが地域にどのくらい愛着や誇りを持っているかにかかっていると考えていて。まちづくりや地域おこしをいくらやっても、市民が『自分たちのまちには何もない、どうしようもない』『地域が悪いのは市長のせいだ』などと思っていては、まちは良いものにはなっていかないんです。ですから、まずは市民が自分たちの住んでいる地域がどんなに素晴らしいものなのかを発見し、地域への愛着や誇りを育むことが必要だと当時は考えていました。
でも、市民の地域への愛着や誇りって、道路やビルができるといったことと違い、目に見えないものですよね。大切だけど、わかりにくいもの……これをどう作っていくかという課題意識が最初にありました」
そうした中で、菅原さん自身も気づいていなかった気仙沼の価値に気づかせてくれる一人の人物が訪れる。日本人として初めて国際ソムリエコンクールで入賞を果たすなど、国内外で活躍していたソムリエの木村克己さんだ。
「木村さんのおじいさんが気仙沼に住んでいたことをご縁に、ある時期から気仙沼を訪れるようになって、来るたびに一緒に自転車でまちを回ったり、大島に行ったりしてね。その度に、彼は散々言うんですよ。『こんなに多様なお魚が食べられて、お米や果物もある。菅原さん、あなたが住んでいるところって、本当にすごいところですよ。こんなところ、他にありませんよ。食材の宝庫ですよ』ってね。
自分にとっては、カツオもメカジキも牡蠣も、いくらでも食べられるのが当たり前のことでした。全て当たり前すぎて、それがすごいことだなんて、全然わからなかったのです。
でも、彼がそう言ってくれたことや、一緒に地域をめぐることで、『こんな素晴らしい景色があったんだ』『ここではこんな食材が取れていたんだ』『この食べ物にはこんな料理方法があったんだ』と、自分の中でも新しい発見がたくさんありました。そうして、まずは自分が、自分の地域の良さに気づいていったのです」

気仙沼の最大の魅力は、食にある。これを市民の誇りにしていこう──菅原さんがそう考えるようになった頃に出会ったのが、当時日本で注目され始めていた、スローフードという概念だったという。
「地域の食やそれを育む環境が素晴らしいことを伝えて地域の人のモチベーションをあげるのに、この言葉はぴったりだなと思って。『じゃあ、乗っかっちゃえ!』と。
こうした理由から、スローフードもスローシティも、それ自体を達成することが目的ではなく、地域が持続可能に、豊かに暮らしていくための手段だと考えているのです」


人も分野もつなぐ。食を軸としたまちづくりへ
こうした流れを経て気仙沼で始まったスローフード運動。始めた頃は食産業に関わっている人は少なく、地域で「気仙沼を良い街にしたい」と思う多様な人たちが集っていたという。数年間、地域で活動したのちに議会や市長を説得し、2003年に市として「気仙沼スローフード都市宣言」を行った。
「改めて調べてみると、気仙沼には数十年前から、食と環境を守る『森は海の恋人』という運動もあり、それが精神的な柱にもなっていたんですよね。こうした背景もあり、スローフードの考え方が地域にフィットしたのだと思います」
そんな気仙沼が行う食を軸とした取り組みは、実に多様だ。例えば、2007年からこれまで数回開催されてきた「気仙沼スローフェスタ」は、気仙沼の食材を使った物販や飲食の提供をはじめ、市内の調理専門学校を用いて地元の食材で料理を作る体験や漁業について学ぶワークショップ、食をテーマとした郷土芸能の披露など、気仙沼の食と文化を五感で味わい、包括的に体感できるイベントだ。
また、毎年行われる「プチシェフコンテスト」は、全国の小学生から高校生までが、気仙沼の食材を使ったオリジナルのレシピを考案するコンテストだ。コンテストの目的は、調理技術を競うだけではなく、地域の新鮮な食材や伝統的な調理方法について、家族などとのコミュニケーションの中で学ぶこと。そうした理念を知り、レシピの最初に「朝、お父さんと川に行って、ハゼを4匹釣ってくる」と書いている子どももいたと菅原さんは笑顔で話す。


こんな風に、誰にとっても身近な「食」。菅原さんは、食には「あらゆるものをつなげる力」があると語る。
「環境問題や持続可能性という言葉を使うと難しくなってしまうけど、『食べ物のことをやろう』と言うと簡単に人が集まります。一方で、食べ物がどこから来たのか、誰が作っているのかといったことを考えると、自然と環境問題にも社会問題にもつながっていく。だから、食を自分たちの真ん中に置くと、難しいまちづくりの議論をするよりも手っ取り早いんです」



「また、食を起点にまちづくりを行う前は、行政も民間も縦割りで、農林、観光、福祉、水産……と、それぞれの分野が分断されていたんですね。
でも、そこに食が入ると、全てがつながって見えてくる。心身共に健康であること、地域が経済的に持続可能であること、自然環境が守られること、まちの人間関係が良好であること。それまでは個別で取り組んでいたこうしたさまざまな課題に、食という切り口でみんなが分野を超えて取り組むことができるようになったのです」
昔は家族が食卓を囲んで集い、地域も近所の飲み会でつながっていたものだった。食べながら話し、自分たちの地域について共に考え、そこから地域を良くする取り組みを生み出していく。気仙沼がやろうとしているのは、そんな昔は当たり前にあった風景を、ただ取り戻していこうとする動きなのかもしれない。
後編では、2011年の東日本大震災からの復興、その中で決めた「海と生きる」覚悟や気仙沼の持続可能な漁業文化、スローシティとなった気仙沼の精神性のより深い部分を探っていく。

【参照サイト】Slow City Kesennumaへの歩み
【関連記事】【後編】それでも、海と生きる。震災と津波を乗り越えた気仙沼に学ぶ、自然と共生する暮らし
※本記事は、ハーチ株式会社が運営する「IDEAS FOR GOOD」からの転載記事となります。
